カフェイン 甘い夢

カフェインをとると、眠れなくなる。カフェインに弱い方で、それを分かっているのに、寝る前にうっかりコーヒーや緑茶を飲んで、眠れない夜を過ごすことがある。何度も寝返りを打って、やっとうとうとと眠りの中へ落ちる。浅い眠りの中で、私は決まって夢を見る。カフェインに支配された日の夢は、自分の頭の中で起こっていることとは思えないほど、作り込まれた映画のようだ。 

昨日の夢。似ているものを探すと、そう、ハリー・ポッターの世界。凝った装飾、現実離れした世界観、魔法に取り囲まれて、私はどこかの国の崖の上の城で、窓の外を見ていた。視線の先にあるのは、私を別の世界に連れていこうとする、赤い車、そして信頼を置いているーでも現実では知らない人だー男性。私は城から出ることが許されない。その城が仕切る何か大切な出来事に関わっているようだった。窓の外で男性は雪の下に隠れている。夢じゃなければあり得ないけど、雪を被って雪の下でじっとしているのだ。頭や背中が雪の白から透けて見える。私に視線を送っていることがわかる。私もここから出たいと思っている。
場面が急に変わる。街のクリーニング店の工場で働いている。とても暑い。私はすこし歳をとっていた。魔法の国に戻りたいと思っている、いや、戻りたくなんかないと思っていたのか。夢だから、すぐに忘れてしまう。首にかけていたタオルのピンクは鮮明に覚えている。少し色褪せたタオル。巨大な洗濯機やアイロンの薄水色。何度も汗を拭った。
そんな夢を見た日は一日中、その夢の甘い気分を引きずる。夢の中に戻りたいと思っている。脳のどこか弱気な部分が、あの美しい夢を求めて、懐かしんでいた。もう戻れない子供の頃を思い出すように、住んでいた頃には決して戻れない故郷を思い出すように、きゅうとくるしく、ほのかな甘みを反芻して、夢を懐かしんでいた。カフェインが連れてくる夢は美しく甘い。覚えていたいのにもうこんなにも思い出せない。

本を取り上げられたとしても

 

たとえば、電車で、前に立った女子高生二人が「ここにいよ、ここが一番痴漢にあいにくいから。」と話していたこと。たとえば、女という性を持っただけで、浴びるあからさま、でもそれが好意的に受け入れられると本人は当たり前に信じている視線のこと。家に帰って色々がよみがえり全てが気持ちが悪くて地団駄を踏みたくなった。毎日に溢れる言葉のこと。歩いているだけで聞こえてくる「男としてさあ。」
救いを求めて本を読み漁る。同じような違和感を持っていて、そして裏付ける知識と言語化できる力がある、そうしてできた本を読んでいると仲間がいるような気分になる。本の中にいると、この考えが世の中に溢れている常識のように思えて、ああ、よく知らない私が遅れていたんだという気分になる。
でも、本から顔を上げて現実に帰ると、まだそこにいるの、と驚いてしまうような場所に、世間はいる。もちろん、そんな人ばかりじゃないことは分かっているのだけれど。
そうだねーって共感と諦めで終わる会話も、根本的には分かってもらえないのだと思いながら、言葉を尽くして説明することも、もうしたくなくて、同じ土俵で話し出して、じゃあどうしていけるのかなっていうその先の話がしたい。
知っていくことで、本に囲まれて過ごすことで、目が開いていく。でも同時に、誰とも話し合えないような気がすることに、社会の不平等や蔓延る差別的な発言、抑圧されている感覚、コントロールできないものに巻き込まれること、どっちが上とか比較ばかりで成り立つ現実に、絶望する。途方に暮れてしまう。私が話し合いたいことは、しょうがないよね、で片付けられていいものなのか?そんな世界に希望はあるのか?
気が付くきっかけがなかったから強固に完成されたマチズモ。結婚=幸せだという一元的な価値観を大勢の前で話すことができる思考のおめでたさ。
「ふわふわしてるよね。」見た目でいつも判断される。だけど私はこうしたことを思わずにはいられないし、言葉にしないと、こうしたことを感じた私が存在しないような気がしてくる。こんなことを考えてこうして言葉にしている私のどこがふわふわしているのだろう?
これはただの私のヘイトなの、それとも話し合っていける希望なの?こんなことを言っていたら「可愛らしい話し方が失われてしまう。」と本を取り上げられてしまうの?
誰のことも批判はしたくない、社会の当たり前がこんなに気持ちが悪いってことに気がついてしまっただけ。言葉にしないと、話し合わないと、何かが失われ続ける。それがたまらなくこわいんだ。

虹の端はどこ?

0208
新しいことを始めてみても、まだまだ足りなくて、そんな飢えが私を取り巻く、そして突き動かす。朝、職場に向かって歩いていくあの時のなんでもできそうな感じ。早足になって、景色が輝き出して、スパークする。あの気持ちのまま、くるりと踵を返してカフェに入り、文章を書きたい。何かしたくて動きたくてうずうずしてたまらない気持ち、知りたくて話したくて、新たな何かに出会いたい、心の乾き。1日があっという間に終わる、私はずっと見えない何かを追いかけて走り続ける。なのに、心の餓えとは裏腹に、身体は疲れてしまって眠りを求める。光の方へ、進むしかないのに。

 

0221

雨。しとしとと降る雨が好き。浮かび上がっていた思考が雨によって落ちてきて、沈澱する。暗い部屋の中、それらをかき集めて眺めてみる。さんざん眺めて、まあるく透明になったそれをまた心の中の引き出しにしまう。雨に取り囲まれた部屋の中、水槽みたい。

 

0223
柚子胡椒のサワーにハマっている。お酒は毎日飲むと体に悪いという記事を読んで怖くなったけど、休みの日は、夕方を過ぎて暇になるといそいそとお酒を作ってしまう。まだ外は少し明るくて、大好きな音楽で部屋を満たして、お酒を飲む時間はとても幸福だ。好きなものに囲まれていて、自分の部屋が好きでたまらない。

大切なものを守りたいのだけど、最近どうにも文章が書けない。だから惰性でもこうやって書き出してみた。好きな文章がある。今はインプットの期間なのかも。読めるだけ読もう。本が好きだ。言葉を話すことと、文字をタイプすること、そしてノートに文字を綴ること、似ているけど全く違う。部屋を暗くすると安心するのはなんでなんだろう。

今日は気温がとても低いから一歩も外に出たくなくて、家でずっと本を読んでいた。本の中で5歳児だったベラは10歳程度の脳に成長した。私は一歩も家から出ていない。有限な時間の中で、無限に本を読んでもいい感覚は絶大に幸福だ。いつまででも本を読んでいいなんて、誰にも何も言われないなんて、いつご飯を食べてもいいなんて、ひとりってなんて贅沢なんだろう。読みかけの本が沢山ある。それから空腹。そして、精神が安定していることの幸福ったらない。

白色の日

 

最近見た映画の原作がどうしても欲しくなって、本屋を3軒まわって歩いた。どこにもなかった。ネットで検索してもなくて、出遅れた、と思った。代わりに燃えるスカートの少女をヴィレバンで買った。770円。細かくてすみません、と、百円玉と十円玉を7枚ずつ出した。下北沢には好きな本屋と、普通の書店と、ヴィレバンがあって、こんなことなら好きな本屋にずっといればよかったと思った。原作だけを目当てに、通り過ぎるように本屋を回ってしまったから。傘を忘れたと言う彼のために、17時過ぎには駅に戻らないといけなかった。どうしようかなと思ったけど、家に帰ると出るのがとても億劫になってしまうことを知っていて、駅前の喫茶店に入ってメニューをひらく。甘いものが欲しい気分だったけど、どれも高く感じた。本が一冊買えるじゃん、と思って1番安いコーヒーにした。580円。いつもはブラックで飲むのだけれど、お砂糖とミルクを入れて、ミルクコーヒーにしてみた。何かを探している時、心が急いていて、余裕がなくなる。ゆっくりするときめた休日だったのに、歩き過ぎてしまった。ミルクを入れすぎたコーヒーはぬるくて美味しかった。外はまだ雪。

パレスチナを思う、そして話し出すこと

 

よく見るとシンプルなこと、いざ目の前で起きたら何が悪いかなんてすぐに分かることなのに、遠いから、よく分からないからってだけで、私たちは話し出そうとしない。死がすぐ近くにある日々を暮らす人々がいて、家族が、友達が、恋人が、隣人が、何人も何十人も殺されていく、毎日を暮らす人々がいる。話し出すのは勉強してからにしよう、と思っても、検索する、本を開く、その瞬間にもたくさんの命が奪われている。言葉に出来なくてずっと声に出せなかった、話し出すのが怖かった、今もこんなにも言葉に出来ない。少しずつ知っていく中で、自分の中に情報が増える中で、これを言わないのは、知らないのと同じことだ、無関心と同じことだ、とはっきり思った。知っていて、声に出さないのは、見て見ぬふりをすることは、いちばん卑怯なやり方だってさんざん思い知ってきたはずなのに。パレスチナで起きていること、目を見開いてちゃんと見続ける、考え続ける、話し続ける。知ったのならば声をあげる。見てるよ、という声は、きっと届く。

書けない冬のある数日の

 

0118

何も浮かばない、白い画面に向かえない日々。眠たくて、重いまぶたと戦えない。
明日になったら、本をたくさん読んだら、書けると思ってた。どうにかこうして日記を開いてみる。急行が来るまでの3分間、連ねてみるけど止まってしまう。言い訳ばかりの人生は嫌だな、でもとりあえずこの3分間を繋いでいくことにする。わたしは何がやりたいんだっけ?どんな自分でいたいんだっけ

 

19:58

うまれたいかりを出さないこと、あきらめて笑うこと、全部できなくて、この情緒の不安定は毎月の周期のなかで必ず起こること、渦の中にいるとゆるせないよ、全部、全部。つまずきがいくつもあって、いちいちつまずいて、溜まる。溜まって、黙っていたら、あふれる!素直に出すこと、他人に見せること、助けを求めること、全部できなくて、隠して、繕って、装って、あふれる!生理が来る前、(だってそれは月に一回だよ)気持ちのジェットコースターにどうしたって乗り込むしかない。落下する手前、音がして、絶望する。フリーズする。助けてほしくなんかないけど、ゆるしてほしいよ。

 

0119

遠くでLINEの通知がぼやりとひかり、アラームが鳴るより15分早く目が覚めた。喉がちょっといたいな、お腹もちょっといたいな、目が覚めた途端、体のさまざまが話しかけてくる。許せなかったのは、何よりも自分自身なのかもしれないな。何があろうと平静で、やさしさで相手と話せるような人、その理想の完璧さが私の首をいつも絞める。何度だって気づき直すしかないんだ。それまではずっと苦しい。外の世界は怖い、と雷が落ちるように気がついた大学生の頃、止まらない涙が曇りを晴らした。全てが見えてくる時、涙が止まらなくなる。もっと見えたら、もっと優しくなれるかな。

 

0120

慣れた人のもとを離れること、慣れない人と目を合わせること、大人になってどちらかに偏ると、途端にこわくなるのだけど、大丈夫といいきかせる、なにも心配することないよ。帰り際に「帰ったら読むね!」とそのことを口にしてくれたのが嬉しくて、この時間に家に帰れるのも嬉しくて、帰ったら本を読みながら飲み直そう、と思う。
雨がしとしとと降って、恐れていたほど寒くはなくて、心のどこかで映画で見たいちめんの雪を思い浮かべる。天気予報に雪マークがつくと、うれしい。まわりのひとを見ると迷惑そうな顔をしている。雪が嬉しいこと、このちいさなズレのようなもの、囲まれていて動けなくなる。ただ笑うが難しい。ふわふわ落ちてきた雪のように、一瞬見えて、あとは溶けて、どこかで見守っていられればそれでいいのに。

ここは水の底

 

年末の、みんなが揃って買い物に出かける雰囲気が苦手になったのは、いつからなんだろう。デパートの、ファッションビルの、箱みたいな空間に足を踏み入れるのをほんのすこし躊躇うようになったのは、最近のことだとは思うんだけれど。人が多い場所は、居場所がないみたいで、逃げ出したくなる。金曜日の吉祥寺、必要なものを買いに出かけたのに、気がついたら家まで帰る電車に乗ってた。はちはちに詰まった他人のエネルギーを吐き出さなきゃ、ひとりにならなきゃ、静かな場所へ、早く早く。インスタグラムも、YouTubeも、人手の多い吉祥寺の続きのようで、飾られたリアルを今はどうしても見れない。作り出された希望を見ないと、早く早く、吐き出さなきゃ、死んでしまうは大袈裟だけれど、今は表情を作らなくていい場所で、ひとりになりたかった。ネットフリックスを開いて、脚本のある架空の現実を見た。浮き沈みの少ない、凪のようでいて、手を伸ばしたいほどに魅力的な作品を見ながら、魂を抜かれたみたいに、ぼうと見ながら、溢れる涙もそのままにして2時間。ただ受け取って、ただ涙を流す時間はケアだ、エンドロールを見ながら何度だって浮かんだ実感を改めて手の中で見つめる。この部屋にあるものは、ずっとただそこに在るのに、目に入らなくなるほど、外の世界に出かけていた自分に気がつく。やっぱり年末は特別な季節だ。だからどうしたって疲れる、わたしはわたしなりのケアを。あなたもあなたなりのケアを。沈んでいたって絶対浮かんでくるいきものなのだから、だいじょうぶだよ。