忘却

雨がざぶざぶ降ってきて、朝の間に整えたいろいろがあっという間になかったことになった。私は、きっと何十年後かに目を細めて思い出すであろう、印象的な別れの時間を過ごしていた。いつか聴いたらこの時間を思い出すような歌が必要だ。さらさの「ネイルの島」を定着させるように聴く。時間は刻々と前に進んでいき、通った道や出会ったひとの輪郭がぼやけて、消えていってしまう。何かに夢中になって数時間経って、ハッと思い出すと、それはあきらかに数時間前よりも淡い記憶となって頼りなく立ち現れるのだった。その度に私は、ひどくかなしくさみしくて、鮮やかな記憶の永久保存を願う。健やかな人間関係とは、制度とはなんだろうと考えていた。それならいっそ、1日ごとに記憶が消えて、なにも積み重ならない日々ならいいのではないかと考えて、でも私は忘れることがこわすぎる、と本能的な恐怖を抱いていることに気が付く。過ぎ去る、ことと、忘れる、こと、それらがこわいのは、無かったことになるからだろうか?無かったことになると、心の底では信じているのだろうか。結局わたしは、繋いでいた手を振り払われることが、こわいのだろうか。

緑色の地球

 

ねむりたい、ねむりたい。なんでも楽しいはずなのに、何もかもが遠い。圧倒的な眠気は、何のせいだろう?と考えるようになってしまった。眠いことがとても悪いことに思えていた時期が確かにあったから。眠ることは、怠慢ではないのに。

眠くなってしまうことがひどくもったいないことに思える時がある。まだ遊びたいのに、まだやりたいことがあるのに。子供みたいな欲求が、私を離さないでいる。

 

 それで、無理やり眼を開けて、これを書き始めた。

言葉を綴るのは、鞄の中を探すみたいだ。自分の中を覗き込んで、手を突っ込んで、ゴソゴソ、自分に忠実な言葉を探し出そうとする。だから、書きたいという欲求は、今自分が何を思っているのか知りたい、ということなんだと思う。

 

 電車のドアが開いて、乗り換えのために降りるはずだった駅名が見えたけど、なんとなくこのまま、乗っていることにした。次の駅、またドアが開いて、ざあっと入ってきた風が、まだ来ない夏の夜の気配を載せて私の元に届いて、ここで降りてしまいたいと思う。この駅には大きな川があって、木が沢山あることを知っていた。人間の匂いと無機質な匂いだけする都会と、違う匂いがする。生きている草木の匂い。人間がなにも手を加えず、ただ放っておいたら、どんな場所でも草花が生えて、やがて地球は緑色になるのに、どうしてコンクリートで灰色なんかに染めちゃうんだろう?人間が今まで作り上げてきたものにしっかり恩恵を受けて生きていながら、それでも私は、強く自然に惹かれて、自然がある方に行きたくなってしまう。

 

ねむりたい気持ちは本能的なものであり、それに抗うことは不自然である。そんなことは分かっていて、自分に体力がないことも、全部わかっていて、それでも眼を覚ましていたいと願う。それは今をただ生きていたいことと、同義なのかもしれない。

何が言いたいのかわからなくなって、目を閉じる。そして眠りが落ちてくるのをただ待っていた。

翼は打ちひしがれていた

 

手放したことを手に取ることは新しくはじめるのと同じくらい、むしろそれよりも難しい。

翼が生えていたはずのわたしの背中はハリボテだったと気がついた時はどうしたらいいだろう。

足が前に進んでいたはずが地面が動いていただけで、

私はずっとそこで 同じ場所にいて

 

座っている場所から身体を伸ばすために立ち上がることさえ、自動的に頭が痛くなるみたいに、何もできなくて嫌になる夜を何日も過ごしていた。

イヤホンから流れてくる何度も何度も聴いた音楽だけが、私の輪郭をかろうじて浮かび上がらせて、でもそれはなんだか水の中に沈められたスピーカーみたいにこもった音で鳴っている。遠い。

 


春がきたよ、と知らせてくれるみたいに、窓を開けたら春が部屋に入ってきた。冷たい雨はもう止んだ。

 


天秤の上に乗って、ぐらぐら揺れている。秤の上に乗っているものは希望と絶望?それともただの選択肢?

大きく片方にジャンプしたらそう、きっとこうなるって思うのはただの想像で、現実はなんだこんなことだったのか、と思うくらいの軽やかなことなのかもしれない。焦らず、ゆっくり、歩んでいきましょう、イヤホンから流れる声。

 

ハリボテだと思えた翼は、栄養が足りなくて元気がないだけなのかもしれなかった。軽やかに生きていきたいだけなんだ、自分に戻るんだ。

抵抗を書いて手渡す

 

水色の蝶が、水面の僅かに隆起した土の上に留まり、羽をしばらく休めていた。あまりに動かないから心配になる。気にかけるようにその蝶を眺める。すると、白い小さな粒が落ちるのが見えた。静かに、そっと粒が地面に落ちる。それは蝶の産卵だった。遠くの木の上には、首の長い鳥たち。ばさり、と水の上に降り立つ。首を前に出して悠々と空を飛ぶ。水面に光がすうっと延びて、風が通ったねと言い合ったこと。小さい小さい鴨の赤ちゃんが喜んでるみたいに何度も潜る様子。忘れたくなくて、起き上がりPCを開く。
だって私たちは何もかもすぐに忘れてしまうんでしょう。いのちが生まれ落ちた時間のこと。いのちが奪われ続けた時間のこと。すぐそばで誰かが殴り合ったとしたら、その理由は聞かずに、咄嗟にやめるように叫びそして止めに入るだろう。近くの人の死は、痛くてたまらないでしょう。涙が止まらないでしょう。そんなに痛いのに、咄嗟に叫ぶのに、どうして今、現在進行形で奪われ続けるいのちのことは、通り過ぎて平気な顔で毎日を過ごせるの。わからないから、見たくないから、難しいから、それとも遠いから。慣れてしまったから?
毛布にくるまって、暗い部屋で岡真理さんの動画を見た日から、季節がもういくつも過ぎてしまった。全然終わらないどころか、酷くなり続けていく様子が流れてきて、眠る前、朝起きた時、画面をスクロールする手が止まらなくなった。何もかもまず疑うようになった。食べ物を買うとき、服を買うとき、音楽を聴くとき、映画を見るとき、お店に入るとき。こんなに痛くてたまらないのに、ただ生きているだけで、私が払ったお金が武器になってしまうかもしれない。ただ生きているだけで、誰かがギリギリでやっと放った言葉を、踏み躙ってしまうかもしれない。ただ生きていることが、こんなにも誰かの思惑にまみれていて、何も考えないでいることで、その誰かの大きな手に勝手に道を決められてしまう。勝手に人を殺させてしまう。そんな世界を生きている。嫌すぎる。そんな世界でずっと生きていくなんて、叫び出したいほど嫌だ。手放しに何もかも楽しめる時間は過ぎた。過ぎるべきだった。何も考えずにただ自分の幸せだけ考えて笑っていることは、どれだけのことをないものにしてきたんだろう。
部屋の中で、この安全な場所で、何度も泣き出しそしてわかりたいと思った。何かしたい、何か、できることを、早く、終わらせて。この安全な場所で、画面を閉じればなんてことのない日常が広がっているこの生活で、何ができるだろう。簡単にわからないように操作されている情報にまみれて、そうやって何もかも操作された世界で、見ないで済むことが選べる世界で、私には何ができるだろう。目を開いていたい。全ての差別に抗いたい。そしてこの感覚を忘れることを、絶対に、私は私に許さない。

だけどただ覗き込んで

 

楽器を吹きたい、弾きたい、うたいたい、なんでもいいから音楽に触れたい。これは、特別な欲望ではないと思う。というか、特別、特別ではない、と分ける必要はなくて、持った欲望は、持ったものなんだと思う。なんでもいいから音楽に触れたい、そう思いながら帰路を歩いていた。でも今は、家に楽器が何にもないのだけれど。
私の発するものが、誰かにとっては、目を瞑りたいような、少し息が浅くなるような、撫でるようにその人に傷をつけるものだったら、と思うことがある。誰も傷つけないなんて無理だと思っている、でも、私がこうして言葉にしなかったら、発信しなかったら、誰かが居心地の悪い思いをしなくて済むのではないか、と思う自分がいる。私は時にとんでもなく浅はかなんじゃないか。冷静な自分が過去の自分を指差して叱る。私が今享受している環境は、浅瀬で水遊びしているようなものなんじゃないか。その上で私が思ったことを声にするのは、何かをひどく踏みにじっているような気がしてしまう。
人に何かを教えることが苦手だ。私が勉強や、方法や、ルールを教える立場になったら、と思うだけで動揺してしまう。絶対にできない、と思う自分がいる。私は苦手なことが本当にたくさんあり、慣れればできる、場数を踏めばできる、と言われたらそれまでだけど、そこまでして、なんでも器用にできるようになる必要があるのかなあと入口で立ち止まってしまうので、成長しなきゃ、どうしようもないよ、みたいな筋肉質な考え方は私の前を素通りしてしまう。
発することは、背負うことである。こういうことを考えている、と目の前の人に言う時は、私の存在を賭けている。そのくらい腹を決めて、自分を裸にして、話している時がある。だからこそ、「こういうことを考えているのだけど、いいねって言ってよね」みたいな、共感が何よりも優先、みたいな、世界観を私たちは背負い過ぎているように思う。少なくとも私は、今まで誰かに「わかる!」って言ってもらえないと不安で不安で仕方なかった。
そんな世界を自分に課していたんだ。
だから、人から「わかる!」って言ってもらえると思えないものは、発信することが怖かった。
人は全員、驚くほどに違う。そんな大前提みたいなことを、最近はよく考える。長い時間をかけてさまざまを話してきた友達と、二人の間の溝を覗き込んだ日。ああ、こんなにも私たちは異なっているのに、今まで「わかる!」って言い過ぎていたのかもしれない、って心から思った。溝はずっとただそこにあって、少し砂をかけて、見えなくしていただけだったのに。
「わかる!」ってそんなに大事だろうか。自分に問う。でも私は、私にとって大事なことを話して、相手が解してくれなそうだったら、そこではぐらかして逃げようとした。そんな自分も見たんだ。
わかるとわからないの間の、わかりそうでわからないとか、わかるような気がするとか、そういうあいまいなぼやけた部分に目を向けることがしたい。わからないけど、あなたのことが見えるように、もっと話したい。白黒つけて、それで終わりじゃなくて、もっと、もっともっともっと、話がしたい。そんなことを思っていた夜だった。
23:11

星と星を投げ合うみたいな

 

材料を切って鍋に入れてじっくり煮込んだタッカンマリが本当に美味しかった。一人暮らしで食べたいものなんて思い浮かばない日が多いから、アルゴリズムによって勝手に流れてくるInstagramのレシピはありがたい。タッカンマリ、味は想像ついていたのだけれど、今日のはすっごく美味しかった。新玉と新じゃがの甘さが優しくて、塩だけで味付けた生姜の風味がするスープは心が溶けちゃう。いつも動画やドラマを見てご飯を食べるけど、今日はスピーカーからpodcastを聴いた。空間に会話がいっぱいに溢れて私だけの秘密の、好きで好きでたまらない空間が生まれたのだった。
他人と対峙するときに心の扉が4枚くらいある。1枚目は結構簡単に開くけれど、2枚目以降はめちゃめちゃ重い。誰かと話すのは難しい。安心できないと話せない。聞かれたことに詳しく面白く返さないとって思う。でも私の口から出てくるのは断片的な情報、単語、単語、、、。自分を低く見積もるし、勝手に口から出てきた言葉は私のものじゃないものばかり。まあでもいいか。と思えるようになったのは最近のこと。
スーパーに寄ったら有人レジよりセルフレジが3倍くらい並んでいた。ラッキーと思って有人レジに並ぶ。ポイントカードをつけてもらおうと差し出すと、前とは仕様が変わっていて、レジの方に教えてもらう。片耳にイヤホンをしていたのと急に話すことになって戸惑って、まだレジの方が教えてくれている途中で2回くらい「ありがとうございます!」と言ってしまう。間違えた。でもレジの方の微笑みが優しくて助かる。こういう些細なやり取りがしたくなくてみんなセルフレジに並んでいるのかな、と思ったりする。私もつい最近まで、休みの日は誰とも話したくなくて、レジの人との会話も億劫で(レジ袋は要りますか、とかいう簡単な会話なのに)家に閉じこもっていたりした。セルフレジに並ぶ人の気持ちは痛いほどわかるのだった。でも最近はあまり抵抗がなくなってきた。
松本に行った時、道を歩いていたら茶色いプードルを連れたおじさんがタバコを急に道端で吸い始めた。そしてくるりと振り返って言った。「ごめんね。」タバコを吸っていることかと思ったら、プードルの方を見て言っていた。犬といてごめんねってこと?それは逆に、犬を見せてくれてありがとうございます。少し笑いながら立ち止まっていたおじさんを抜かす。タバコを咥えたおじさんは歩き出して私たちを抜かしながら「抜かしてごめんね。」とおどけた様子で言う。おじさんの後ろ姿が遠くなってから、一緒にいた人が言う。「タバコ吸ってごめんねじゃないんだ。」おじさんと犬の後ろ姿はどんどん遠くなる。
2枚目以降の扉は全然開かないけれど、1枚目の扉を開けるだけで、目と目があって、話し出せる。すれ違う他人同士の一瞬の目くばせ。ちっちゃい星と星を投げ合うみたいな、1年後には忘れているみたいな、ささやかで柔らかくてきらきらの、そんな瞬間を見逃さないでいたい。
10:56 pm

人間の格好をした天使

 

「色々とやりたいことがあって」と初めて言えた気がした。奥底では思っていたけど口にすること、自信が持てなくて、はぐらかしてた。それを私の何もかも知らない人にふらっと言えたこと、一歩進むごとに嬉しい。歩きながら、今来た道を思いながら、嬉しい、と思った。私が今誰かにこう言えること、私がした全部の選択の結果だ。いつの間にか忍び寄った闇に気付いたときには侵食されて、働いた後はへとへとで、涙しか出ない真っ暗な日々があって、今、気がついたらその日々を越えてた。思い込んでたことがすっかり過去のことみたいに忘れられて、新たな私の水準の上で生きてる。気持ちが明るいこと、それだけで、こんなにも嬉しい。やっぱり私たちは何もかもすぐに忘れてしまうね。
嬉しさを引き連れてスーパーに寄り、いつもは買わない長い缶のビールを買う。嬉しい日には乾杯をしたい。昨日作っておいたカレー。なんかいつの間にか、大人になったなあ。大人ってなんだろう。大人と子供って分けられるけど、分け目なんて本当はなくて曖昧で、あえて分けるとするなら、子供の方が素敵なこと考えてたりする。「子供には子供の神様がいて」最近見た映画の中で言ってた。普通とか、こうしなきゃいけない未来なんて存在しなくて、それは全て幻想で、今見えてるものだけ、それだけが全てなんじゃないか。じゃあ、それだけが全てなら、それだけを積み上げて、私は私の憧れてしまう私になりたい。いつでもどこでも歌っている子供、自分から本を開いてじっと読んでいる子供、なんでも食べたい子供、家に帰りたい子供。一人一人の子供が生まれながらに持つ"個性"は受け入れられるのに、いつから私たちは、何かに結びつく個性しか個性と認められずに、普通であることに苦しみ、何もないことに焦り、自分をあきらめるようになるのだろう。あなたにはこんなにも光るものがあるのに。なんにもあきらめなくてもその佇まいには光が宿っているのに。「ばいばい、またね。」と目の前にいた子供に言われて、そんなことを考えていたりした。
地球上には人間の格好をした天使が紛れているらしい。目の前にいるあなたもあなたも、天使に違いないね。